カカオの生産国を挙げるとき、ブラジルの名前はあまり出てきません。ガーナ、コートジボワール、エクアドル、ペルーが並びます。

ところが1980年代半ばのブラジルのカカオは、世界第2位の生産量を持っていました。その地位が数年で崩れました。原因は価格でも気候でもなく、ひとつの菌です。

1989年、バイーア州で確認された

主産地はブラジル北東部のバイーア州です。ここで1989年に、ある病気が確認されました。

テングス病です。査読誌 PLOS Pathogens に掲載された論文は、「テングス病は担子菌の Moniliophthora perniciosa によって引き起こされる」と記しています。

枝が異常に伸びて束のようになり、実が黒く腐って収穫できなくなります。木を枯らすというより、実らせる能力を奪う病気です。

カカオの実のつき方そのものはカカオの花は幹に咲くで扱いました。年に数千の花が咲いて実るのは20個ほどという、もともと余裕のない作物です。そこに病気が入ると影響は大きくなります。

生産は7割減った

数字で見ると規模が分かります。同じ論文には、「主産地(バイーア州)における1989年の病気の侵入が、生産を70パーセント減らし、この国をカカオ豆の純輸入国に変えた」と書かれています。

生産国が、輸入国になった。これがこの出来事の帰結です。

状況
1980年代半ば 世界第2位の生産国
1989年 バイーア州でテングス病を確認
侵入後 生産が70パーセント減少
その後 カカオ豆の純輸入国へ

輸出していたものを買うようになる、という転換です。国内の菓子産業は残ったので、原料だけを外から調達する形になりました。

2013年でも回復しきっていない

その後どうなったのでしょうか。論文には続きがあります。

「2013年には1989年の生産量の65パーセントにしか達していない」と記されています。病気の侵入から二十年以上たっても、元の水準には戻っていないということです。

回復が遅い理由は、カカオという作物の性質にあります。苗を植えてから実をつけるまで4〜5年かかります。この年数は短縮できません。病気に強い品種へ植え替えるとしても、収穫が始まるまで待つことになります。

植えてから実るまでの時間についてはカカオの花は幹に咲くでも触れました。価格が上がっても急に増産できないのは、この性質によるものです。カカオ相場の動き方はチョコレート値上げの理由にまとめています。

病気がひとつで産地が変わる

この出来事が示しているのは、産地の構造の弱さです。

カカオは赤道付近の限られた地域でしか育ちません。栽培できる場所が限られているぶん、ひとつの産地に問題が起きると世界の供給に響きます。産地の分布はカカオの産地と品種を記事別に整理にまとめました。

しかもカカオは他家受粉で品種が混ざりやすく、同じ農園に似た遺伝的背景の木が並びがちです。品種の性質はカカオ豆の品種の違いと特徴で扱いました。似たものが並んでいれば、病気は広がりやすくなります。

単一の作物を広い面積で育てることの弱さが、ここに出ています。

同じ構図は他の作物でも知られています。似た性質の木が広い面積に並ぶと、ひとつの病原体が入ったときに止める場所がありません。間に別の植物を混ぜる育て方が見直されているのは、この弱さへの対応です。

生産者の側で起きたこと

数字の裏には人の話があります。

研究機関や報道によれば、この病害によってバイーア州南部では多数の農場が経営を続けられなくなり、雇用が失われ、農村部から人が流出したと伝えられています。被害面積は数十万ヘクタール規模とされています。

ただしこれらの数字は資料によって幅があります。ここでは査読論文で確認できた「70パーセントの減少」と「2013年に1989年の65パーセント」という二点を軸に置きました。

カカオ農家が置かれている状況の全体像はカカオ農家の現状で扱っています。価格の変動だけでなく、病害もまた収入を直接左右する要因だということになります。

いま、ブラジルのチョコレートはどうなっているか

生産は元に戻っていませんが、作り手の側では別の動きが出ています。

豆の仕入れから板チョコまでを一貫して行う作り方が広がり、産地の国でそのまま加工する例が増えました。この考え方はBean to Barチョコレートとは?にまとめています。

豆を安く売るのではなく、板チョコにして売る。この方向は、生産量で勝負できなくなった産地にとって現実的な選択肢です。同じ動きはフィリピンにも見られ、フィリピンのチョコレートで扱いました。

量を失った産地が、質と加工で立て直そうとする。ブラジルの現在は、その途上にあります。

カカオの病害はほかにもある

テングス病はカカオを襲う病気のひとつにすぎません。

西アフリカでは別の病気が問題になっています。コートジボワールのカカオでは、カカオの木を枯らすウイルス病と、天候不順による収穫量の減少を扱いました。産地が違えば、脅威の種類も違います。

共通しているのは、どの病害も実をつける能力を奪うという点です。木が生きていても収穫できなければ、農家の収入は立ちません。そして植え替えれば数年の空白が生まれます。

カカオがこうした脆さを抱えているのは、栽培できる地域が狭く、湿潤な気候を必要とするためです。病気が好む条件と、カカオが育つ条件が重なっています。生育の条件はカカオの産地と品種を記事別に整理にまとめました。

植え替えという時間のかかる対応

対応として取られるのは、病気に耐える品種への植え替えです。ただしこれには時間がかかります。

苗を植えて実が取れるまで4〜5年。その間の収入をどう作るかという問題が残ります。病気の対策そのものより、対策の期間を越える体力のほうが問題になります。

品種を替えれば味も変わります。産地ごとの風味は品種と土地の組み合わせで決まるので、病気に強い品種に替えた産地は、以前と同じ味を出せるとは限りません。品種による違いはカカオ豆の品種の違いと特徴で扱いました。

ブラジルのカカオが数字の上で戻りきらないことには、こうした事情が重なっています。

消費の側からは見えにくい

売り場からは、こうした変動は見えません。

板チョコの産地表示は、その年に手に入った豆の産地です。供給が減れば作り手は別の産地に替えますが、その理由がパッケージに書かれることはありません。

価格に出ることはあります。カカオ相場が上がれば、内容量や価格が見直されます。その経路はチョコレート値上げの理由で扱いました。値上げの理由をたどると、どこかの産地の事情に行き着くことがあります。

産地の名前が消えるということ

まとめると、ブラジルの例は産地が入れ替わりうることを示しています。

いま売り場で見かけるガーナやエクアドルといった名前も、固定されたものではありません。コートジボワールのカカオでは病害と気候変動による生産減を扱いましたが、同じ問題はどの産地にも起こりえます。

次にカカオの産地表示を見たら、その名前が三十年後も同じとは限らないことを思い出してみてください。1980年代の売り場には、ブラジルの名前があったはずです。

参考文献

※被害面積や雇用への影響については資料によって数値に幅があります。本文では査読論文で確認できた数値を中心に記載しました。